ペコロスの母に会いに行く

ペコロスの母に会いに行く
入院中、たまたま見ていたTVで紹介されていた、「ペコロスの母に会いに行く」
TVでは作者の岡野雄一さんと田口ランディさんの対談と、漫画の紹介があり、是非読みたいと想っていた本を読むことができました。

「認知症のお母さんと、その介護をするペコロスさん」のストーリーなのですが、恐らく「人生の重荷」だった出来事をまるで浄化していくようにあたたかいエピソードにかえていく岡野さんの眼差しに、胸が熱くなりました。

一番印象的だったシーンは、お二人が散歩中、赤ちゃんとすれ違ったとき。岡野さんの心に浮かんだ

*
人生の重荷を
降ろした笑顔と
人生の重荷を
まだ知らない笑顔の
何とよく
似たものか
*

という言葉。
我が家には、「人生の重荷をまだ知らない」笑顔と、「重荷を降ろしている過程にある」表情が同居しています。
そのため、「育児」で子どもに向き合うことも、「介護」で老いに向き合うことも、「命に向き合う」という意味では同じだなと思っていたのですが、岡野さんは特に「笑顔」に焦点をあてられていて、あたたかい気持ちになりました。

介護する、ということは、日々色々な想いに直面するのですが、この本の中にはその「色々な想い」を含みながらもほっとした気持ちになれる、優しさに溢れていると感じました。

いい本に出会えて幸せです。

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和顔施(わがんせ)

「あの日」から二年。

今年は、病室でぼんやりTVを観ながらその時刻を迎えようとしています。

入院のわけは、昨年末に骨折してしまい、そのギブスが外れたあとになって、腱が切れているのが発覚したため、先週金曜にそれを繋ぐ手術を受けました。(経過は順調です)

たった一週間ほどの入院ですが、子どもたちやパパへの想いや、岐阜の母への想いを再確認したり、自分の中にある色々な想いと向き合ったりする時間を過ごしています。

そんななか、たまたま観ていたBSで、瀬戸内寂聴さんのお話を聴くことができました。

印象的だったのが
「和顔施(わがんせ)」
という言葉。

詳しくは覚えていないのですが、
「笑顔をみなさまに届けることで、幸せが広がる」という意味だったと想います。

震災のことに限らず、一時的とはいえ今こうして家族と離れていることで、子どもたちやパパ、義母に何もできない自分をもどかしく想うのですが…

この「和顔施」という言葉や、寂聴さんのお話をを聴いて、今ここで笑顔でいることも、複雑な想いを感じることも、すべてに意味があり、愛のあるメッセージなんだということを、改めて確認する時間になっています。

被災されたみなさまに想いを馳せつつ、日々を大切に生きていこうと想います。

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RE:START

今日は冬至。

一年で一番夜の長い日ですが、今日からまた昼間の長くなる「太陽再生」の日。巷ではマヤ暦の云々…などともりあがっているようですが、新しい一歩をふみだす気持ちをまとめる意味で久しぶりにブログを書いています。

この一年の我が家は、色々な出来事がありましたが、ついに私の番もやってきました…
先週のことですが仕事中に右手を骨折してしまいました。。

よりによって利き手…、と、パニック気味にもなりましたが、家族や友達に支えてもらったり、ファミリーサポートを利用したりしながら、日々平穏に過ごせています。本当に皆さんに感謝です。

***

この一年、特に5月の誕生日からの日々は、色々な気持ちとの葛藤の日々でした。次々と起こるトラブルや、それによってひきおこされる感情と、どう向き合えば良いのか。。

普段から、基本的には前向きで、「起きていることや出会う人には意味がある。乗り越えられる力があるから困難がある。」と思っていたものの、普段にはない怒涛のような毎日に
吐き気がするほど嫌だったこともあるし、溢れてしまった感情や行動に自己嫌悪に陥ったこともありました。

でも、9月から始めたミッシェルガーデンりつこさんのヒプノセラピーや、てるえさんのセッションを受けたり、自分なりにも心理の勉強を始めたことで、この状況になっている意味や、この経験からの学びなどをフラットな気持ちで受け止められるようになり、「自分が本当はどうしたいのか」ということを素直に認められるようになってきました。

最初は受けることに躊躇のあったヒプノセラピーですが、自分の潜在意識に気付く、ということを通して、今起こっていることの表面的な事象だけではなく、そのさらに奥にある意味を感じられるようになり、それにたいして自分がどうアプローチするか、ということを「普通のこと」としてできるようになりました。

…特に、心理学でインナーチャイルドと言われる幼少期に感じた感情や、フェルトセンスと言われる「はっきりと言葉にできない感情によって感じる体の不調など…としっかりむきあったことで、負の感情をしっかり感じてからそれを手放すことができたり、愛された時の記憶を呼び起こしたり、「本当にしたかったことや、してほしかったこと」に気づくことができました。

こうした感情を少しづつ整理していくことで、一番変化したのはトラブルへの対応でした。

子供たちが自由奔放で元気いっぱいだったり、だだをこねたり、お友達や家族に攻撃的になってしまったり…、お義母さんがいろいろなことに悩んでしまったり…と、して欲しくないと思うことをめいっぱい、しかも最悪のタイミングでされたりしていましたが、

「その行動の根っこになっている気持ち」

に目を向け、そこに気づくことで、自分の気持ちも行動も、一致してきたように思います。

特に、子供達に対しては
「今、このときの私(母親)の接し方が、未来のこの子たちの心の付加にもなるし希望にもなる」
ということを自覚したり、「こうしなければならない」「こうあるべき」という枠に子どもを当てはめなくなったりと、「大好き、愛してる~!」ということを躊躇することなく伝えたり行動したりできるようになりました。

***

こうした経験を通して、今わたしがしたいと思っていること。

それは、大人も子どももみんなが自由に、心から笑ったり泣いたりできる場所をつくりたい、ということ。

まだ漠然としていますが…。

てるえさんのセッションで、「edibleさんは準備ばかりしている」という指摘がありましたが、いよいよ「動き出していいよ、好きにしていいよ」、というメッセージを受け取ることができたので、できることから始める予定です。

まずは、お母さんと子どもがリラックスして楽しめるような、そんなことを目指します。

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産道くぐり

11/3は、以前スタッフをしていた「うみつき」の主催する「いいお産の日in熊本市」。
スタッフをしていた時もありましたが、今年は一参加者として、参加してきました。

シンガーソングライターのmonさんのトーク&ライヴや、お産語り場など、どこを切り取っても充実の時間。
会いたかったうみつきの皆や、なかなか会えなかった友だちにも会うことができて、とても満ち足りた時間でした。

そんな中でも私が特に心に残ったのは、最後の産道くぐりのワークショップでした。

何人かで人のトンネルを作って「産道」を作り、その端から端を赤ちゃんになって潜るというシンプルな作業ですが、入口では母親役のhiromiさんが赤ちゃん役の方を毛布でくるんで胎内にいる状態を作り、「待ってるからね、出ておいで」と、優しく体をさすりながら話しかけます。その後で、その赤ちゃん役の方が「産道」をくぐっていき、最後にまた「お母さん」の待っている出口から「産まれてくる」というものでした。
たったそれだけのことなのですが、実際には「帝王切開」で出産した私にとっては疑似体験であっても「産道から産む」という体験に、ただただ涙が溢れました。
今日「赤ちゃん役」をされた方が、たまたま「帝王切開で産まれた」方だった事も、涙の源にあったかもしれません。。その方の声が、我が子達の心の声にも聞こえ、感じた事を言葉にすることができませんでした。。

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少し前に、セラピストのりこさんと話していた中で、私の中にある「帝王切開だった」事への気持ちや、「NICUにいて母子同室になれなかった」という過去を癒す作業が必要と思っていた時に、この産道くぐりを体験することができたのが、本当に不思議でした。(ほとんど奇跡みたいな感覚!)

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そんな奇跡を感じたので、「子ども達にも体験させたい」と、イベント後に少しだけえちくんだけは産道くぐりをさせてもらい私も出口で待たせてもらいました。えちくんはサクサク産道から出てきて、満面の笑顔で飛び込んできたのに笑ってしまいました。
リュリュはまた、機会があったときにと思います(今日するかな、と思っていたら、恥ずかしがってしなかった…汗)。

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そんな、浄化の涙も流れたイベントでは、会いたかったたくさんの人にも会えて、今年も参加できた事に感謝しています。

私も、この縁を大切にしながら、そろそろ動きたいなと思います。

自分の中の産道を、くぐり抜けたような、そんな想いが溢れた暖かいいいお産の日でした。

うみつきスタッフやサポーターの皆さん、ホントに今年もお顔晴り様でした!
ありがとう。

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ケアってなんだろう?

中秋の名月の今夜は、気持ちが色々と昂っているようで、久しぶりのブログUPなのに、書きたいことが次々と出てきます。
月を愛でるための特別なことはできませんでしたが、こうして自分の気持ちを文章にするということも、月のリズムにあっているということのような気がします。

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この9月は、わたしにとってとても大きな意味のある月になりました。

義母との同居を始めるとき、私は自分の母が祖母の介護をしていたこと、その母が今ケアマネージャーをしていること、義母との関係が良好だったこと、などもあり、「なんとかなるだろう」という想いがありました。
それが、いざこの生活が始まると、「どうにもできないこと」がでてしまったり、お互いの「負の感情」と向き合うことになったり、子どもたちとのリズムが変わってしまい、それに対応できなかったり…、と、、「できる」と思っていたことが「できなかった」、「こうしたい」という想いが遂げられなかった…、「こうしたい」のに「できない」…。。
そういうことが積み重なり、感情的になってしまうことがあったり、気持ちが塞ぎ込んでしまうことがあったりと、不安定な日々が続きました。

そんな中、市の保健センターで心理相談員の先生と話す機会があったり、そのすぐあとにご縁があって「ミッシェルガーデン」のセラピストりこさんと「自分の気持ちの整理」をつける作業を始め、少しずつ、でも確実に前に進み始めているのを感じることができ、やっとこの気持ちを文章にしようと思える日がきた、という感じです。(昨日UPした仮面ライダーと運動会の話は、ウォーミングアップみたいな感じでしょうか…^^;)

***

そんなとき、たまたま出かけた図書館で出会ったのが、精神科医の故小澤勲さんの
ケアってなんだろう

このときの私が、まさに「ケアってなんだろう」と思っていただけで選んだ1冊だったのですが、読めば読むほどに今の私が求めていたことが詰まっていました。

介護している中で、一番苦しいのは、「負の感情」との向き合い方でした。
特に、自分自身の持っている「優しくしたい気持ちはあるけど、優しくできない」という感情や、言葉にできない「イライラ」を、どう受け止めたらよいかということに悶々としていました。

一番衝撃だったのは、介護する家族に対しての気持ちを書いた文章。

他人に語ることのできない、墓場まで持っていかねばならない秘密をかかえている人たちがいることを、私たちは知っておかねばならない。「愛?私はとうていあの人を愛することはできない。だって…」この「…」の部分に語るに語れない闇が潜んでいるのである。このような人たちに愛を求めることの愚を、私たちはしっておいた方がよい。(中略)

(介護する)家族は闇の世界をかかえていることもある、私たちの目が届かないところで追いつめられているのかもしれないと考えてかかわることを、私はスタッフに求めたのである。

幸い、我が家には「墓場まで持っていかねばならない秘密」はありませんが、自分の中にある負の感情をとりあえず今は無理やり取り繕ったり抑制したりしないで、まず具体的に今できることを探してそれをやってみよう、という気持ちにシフトすることができました。

この本の中に、「やさしさにいたる知としての技術」という言葉がありますが、「やさしさ」という気持ちになるまでの間に、今起きていることに対してできること(技術)を学び知るということの大切さにも、気づくことができました。

今の時点で、私にできることは本当の意味での「やさしさ」ではないかもしれませんが、お義母さんのことを知ろうとすることや、何について困っているのか、不自由を感じているのか、ということに目を向けていくことで、変化がでてきているように思います。

また、より深く気付くことができるように、という願いをこめて、心理カウンセリングの通信教育を始めることにしました(本職にするわけではないのですが、一応資格がとれるものにしました)。

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満月の夜には、自分に必要ないものを手放すように祈るとよい、という話を聴いたことがあります。

今日の満月では、私の中にある負の感情を、手放したいと思います。

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